四条畷

四条畷   

大和田建樹 ・作詞・小山作之助・ 作曲


  一

吉野を出でてうち向う
飯盛山のまつかぜに
なびくは雲か白旗か
ひびくは敵の鬨の声

あな 物々し八万騎
大将師直いずくにか
かれの首を取らずんば
ふたたび生きて還るまじ

決死の勇にあたりかね
もろくも敵は崩れたち
一陣 二陣 おちいりて
本陣危うく見えにけり

めざすかたきの師直と
思いて打ちしその首は
敵のはかれるいつわりか
欺かれしぞくちおしき

なおも屈せず追うてゆく
されど 身方は小勢なり
あらての敵は 遠巻きに
雨のごとくに矢を注ぐ

今はやみなんこの野辺に
すつる命は君のため
なき数に入る名をとめて
いでや誉を世にのこせ


枕ならべてもろともに
一族郎党ことごとく
消えし草葉の露の玉
光は千代をてらすなり

今も雲居に声するは
四条畷のほととぎす
わか木の楠のかぐわしき
ほまれや人に語るらん



肖像画・楠木正成

楠木正成

肖像画・足利尊氏
足利尊氏

四條畷の合戦

平安時代末期、大化の改新で実現した
公地公民制は荘園の出現で崩壊し、
やがて武装した地主は武士へと変身して
いきます。そして保元・平治の乱を経て
平氏の世の中になりますが、おごれる
ものは久しからず、屋島の戦で
平家軍が破れ、源の頼朝が鎌倉に
幕府を開きましたがやがて、鎌倉幕府が
衰えてきた十四世紀になると、幕府にも
貴族にもつかない有力な武士が現れる
ようになり、なかでも武略才略に秀でた
楠木正成は英雄的存在でした

やがて後醍醐天皇が天皇親政の再現を
めざして立ち上がると、真っ先に馳せ参じた
正成は足利尊氏らとともに幕府軍を破り
後醍醐天皇の建武の新政を実現させます。
しかし、後醍醐天皇の政治は、間もな
行き詰まりを見せ始め、新政権は、
恩賞の不公平さや、内裏造営の強行などに
よって、しだいに人々の支持を失い
二年余りで崩壊。 吉野へ逃れた
天皇に最後まで味方した正成は
反旗を翻した、足利尊氏と戦うことになり、
六時間余りの激戦の末、ついに兵庫湊川で
戦死しました。

その十年後、父の意志を継いで尊氏らに
戦いを挑んだのが正行とその弟です。
幼くして父と別れた正行は、今やりっぱな
武将に育っていた。正行は、楠木党を結集
和泉、河内の味方を加え、兵を挙げた。
時は南朝に年号で、正平二年(千三百四十七)

八月初めまず紀伊へ進攻し北朝方の隅田
城を攻めた、次いで北進し、九月初め
河内の八尾城を落とした。
幕府は、河内、和泉の守護細川顕氏に
正行討伐を命じた。九月十七日顕氏
勢三千余は藤井寺に到着した
到着したのは正午ごろ、顕氏方は楠木勢
との合戦は明日あたりと踏み、休息に
入っていた、そこへ正行を先頭に楠木勢
七百余が突入してきた、油断を突かれは
支える術も無く、顕氏勢は逃げ散った
藤井寺合戦後、楠木勢の勢いは強まり
各地で策動した。幕府は、再び正行
討伐を決意、顕氏勢だけでは、頼り
ないと見たか、山陰の雄、山名時氏を
添えた。
十一月二十五日両者は六千余で、住吉
天王寺に陣を敷いた。
正行は、この報せを聞き、敵に強固なる
陣地を築かせては、不利と再び急襲すると
決めた、翌日未明、正行勢の先鋒が
住吉に進んできた、時氏は、これを
見て、一方向からのみ襲ってくるはず
がないと読み浜と南へ二手を分けた。
これが裏目に出た。
正行は、五隊に分けたてた兵を一つに
集め、総勢二千余を時氏本陣一千余に
ぶつけた。
激戦が開始された、虚を突かれながら
も、時氏勢は、よく踏みとどまった。
が。大将時氏が負傷、時氏の弟や、
武将の多くも討たれ、ついに退却を
開始した。

これを見て、顕氏は戦わずして兵を
引いた。正行の読みどおりだった。
二度までも敗れて、幕府は本腰を
入れ各地から大動員した。その報は
正行にも続々と届いた。今度ばかりは
正行も、勝利か死か、覚悟を決めた
十二月末、正行は吉野へ行き、後
臨む覚悟の程を述べる、そして、如意輪
堂の板壁に、決死の勇者百四十三名の
名を書き、最後に一首を添えた。

返らじとかねて思えば梓弓
なき数にいる名をぞとどむる

高師直は兵を進め、明けて一月三日
楠木の戦い方を分析、三軍五手に武将を
分け彼らは飯盛山、生駒山など、周囲の
山を押さえ、用意周到に配置された。
五日早朝に、戦が始まり、和泉、紀伊の
野伏しが、飯盛山を攻撃した、これは
陽動作戦で、飯盛山の敵勢が、気を取ら
れているすきを突き、正行の率いる、三千余
は四条畷に突入した。楠木勢は、師直の
本陣を突き、一気に事を決しようとした。
師直には十分な用意があり、乱戦となり
楠木勢が幾度となく、突撃しても、師直に
到達しなかった、楠木勢に疲れが見えて
きた

特に楠木の二陣は、多くの兵を失った
ため、飯盛山近くで隊伍を整えようと
していた、そこえ飯盛山から数十の
騎馬が戦を挑んだ。
が頃合を計るや道誉勢三千は、突入し
これが戦を決した。

楠木勢は総崩れとなり、正行らは、かねて
覚悟のとおり、踏みとどまり、師直をね
らって、駆け回った、敵兵は厚い壁となって
師直を守る、雨の降る如く矢が射かけられ
、正行らは、ことごとく戦死していった。

七メートル五十の巨石碑が建てられ
飯盛山麓には四條畷神社が建てられました


小さな石碑が建てられ、
左右に楠の木が植えられました。
この二本は成長して一本に合わさり、
石碑を包み込んでしまったといわれます。
小楠公墓所の楠の大木がそれです。

楠木正成(千二百九十四年〜千三百三十六年)
大楠公と称され、幼名多聞丸、後醍醐天皇の
鎌倉幕府討伐計画に加わり挙兵。
拠点とした赤坂城陥落後千早城に拠り
その知略と天然の要害相まって幕府軍の猛攻に
屈しなかった千三百三十四年、建武の中興で
新政権が成立すると、河内、摂津の守護となった
千三百三十五年反旗を翻した足利尊氏を
京都で破り、九州に追いやったが翌年
湊川、(兵庫県神戸市)で再度戦い、
敗れて自刃した。

楠木正行(千三百二十六年〜千三百四十八年)
正成の長男。小楠公とも称され、桜井駅での
親子の訣別の言伝えで知られる。父の死後
楠木の勢力をまとめあげ、畿内各地で
北朝軍と戦った千三百四十七年九月には
山名時氏を破った、その知らせを受けた
足利尊氏は正行を討つために高師直師泰を
総大将とする六万の大群を送った、結果
正行軍は壊滅、正行も自刃した。

後醍醐天皇(千二百八十八年〜千三百三十九年)
後宇多天皇の第二皇子。千三百三十一年笠置で
鎌倉幕府討伐の蜂起を呼びかけたが失敗
翌年隠岐へ流された。千三百三十三年に楠木正成ら
反幕勢力の強まる中、隠岐を脱出建武の中興
とも呼ぶ天皇親政を樹立するが失敗

参考文献
K T C中央出版・堂々日本史
主婦と生活社・合戦の日本史


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明治の歌・明治29年(1896)